昭和40年10月28日 朝の御理解



 昨日朝の御祈念の後でございましたか、善導寺の新町長でありますさかいさんがお礼に出て見えられました。選挙の時にも、ご本人もお願いに見えますまた周囲の方達も、お取次ぎを願いお願いをしてございました。なかなか人格者らしいですね。昨日、お礼出て見えましたからその事を神様にお取次ぎさせて頂いておりましたら、色々頂きますのが、例えて言うなら、明日の善導寺町を担うと言ったようなことではなくてです、もう今日の善導寺を治めてゆけということ。
 為にはまず、その自分自身が治められずしておいて、自分の一家が治められずしておいて、町政と言ったようなことはおこがましい事だと。ね、まず自分自身が治められぬ人が一家を治められるはずがない。一家を治められないくらいの人が町の、言わば祭り事を、いわゆるその政治して行くことが出来るはずがない。と言うような御理解だった。本当にあの先生、今日のお話しはもう、きもにめいじて頂いてまいりますと言うてから帰られましたんですけれども。
 私共が日々今日も健康でそして、一生懸命御用にお使い回しを頂きたいとこう願うですね。それがその、ただ一生懸命にその忙しゅう、立ち働かせて頂いたというだけではいけないという事。もう今日も忙しかった忙しかった、本当にもう商売なら特に今日も大繁盛じゃったと、成程、大繁盛であれば忙しければ、お使い回しを頂いたわけなのだけれどもです、ただそのそういうお使い回しを頂いというだけじゃいかん。ね、
 神様に喜んで頂くようなお使い回しをしなからないけないと。秋永先生が昨日も申しておりましたように、その大抵働いたごとある、大抵儲かったごとあるけれども、差し引き残が残っていないと言う。ね、そういうような立ち働きではそれはそれは本当に神様に喜んで頂く御用でなかった証拠に、だと言う風に感じるですね。だからどうぞ忙しゅう、今日も御用、あの立ち働かせて下さいと。
 これは信心がなくてもですね、非常にあの忠実にです、真面目に辛抱強うお仕事をする人がありますですよね。これ先日私あの福岡にまいります時に、あの福岡に私の友人の、いくのと言う人ですが、奥さんが亡くなられましたからお悔みにまいりまして、この人なんか子供の時から非常にあの忠実でした。してもう子供のこんな時から私と同じです、もう大商人になられて頂くことをお互いが誓いあった仲でございますが。
 もうやはりあの久留米に方一方は、きんばるが?)ですか、という大きな魚屋さんの、番頭に行き、私は酒屋の番頭に行くという事でですね、あちらでもまぁ励まし合うて、きた仲でございますが非常に商売も上手ですし、その真面目です。そしてもう辛抱強いです。もうなりふりかまさず一生懸命働きますから、ですから商売も繁盛いたしますしお金ももう沢山残してるらしいですね。
 ですからいわゆるその御用に立ち、あの使いまわされておるわけなんですよね。いや、で言わばお金をそれは残っとく、お金は残りさえすりゃよいかと言うとそうでもないんですね。その、段々忙しくなる、お金が残っ、残るためにいよいよ、窮屈な思いをするようなまた残り方でもいけない。そりゃ信心のない方達の中に、ようそういう例がありますよね。もう本当にこの世には働きに来ておる人。
 働きだけに来ておる人じゃろうというような人。もうお金も沢山残るってですね。まぁ商売も言わば繁盛するとか、色んな事なそんさっておる事が繁盛しておるけれども、自分自身の心一つが治められないで苦しんでおると言う人は沢山あります。ですから私は本当にこの御用にお使い回しを頂きたいと、今日も十二分にです、御用に使うて下さいと、こうなら神様に願う。
 しかも神様に喜んで頂くような御用に使うて頂きたい為にです、まず一番願わなければならん事は、あの明日のことではなく、やはり今日的な事を願わなければならない、為にまず自分自身の事を願わなければならない。自分の心が一つ治まる。まず自分自身の心の上に、いわゆる和賀心。和らぎ喜ぶ心一つ頂けずして、その御用にどんなに忙しゅう立ち働かせて頂いても、それで結果がですよかっても、儲かってもです。
 それでは、大した事はないという事。どうぞ今日も十二分の、御用にお使い回しを頂きたいと、そういう願いを持っております。何と申しますか、着物を着せて頂くでもね、洋服なら洋服を着せて頂くでも、がばがばの、洋服を着たって着心地が悪いです。同時に今度は小さい洋服を着ても窮屈です。御用もね、自分の体にピターッと合った御用でなかにゃいけませんです。
 十分、もう自分にですね相応しい、きちっとした、本当に神様が与えられた、仕事と言ったような、神様に恵まれた仕事と言ったような、その恵まれた、御用でなからにゃいかんです。ね、そして一日を終わらせて頂いてです、本当に神様今日も忙しゅう、御用にお使い回しを頂きまして、有り難うございますと、お礼の申し上げれるような、御用でなからにゃいかんです。
 もう忙しかった、もう疲れた疲れたと言ったようなだけの御用ではどんなに十二分に使い回されてもです、結果が良いはずがありません。ね、どうぞ私の頂いておる知恵とか力とかね、才能というものを十分に発揮出来るような御用にお使い回しを頂きますように。ね、願わなきゃならん。同時にその御用を、を願わせてもらう為にまず自分自身の心一つが治まっておらないでは、その御用が生きてこない。
 いわゆるその、いくら働いても働いても、いわゆるじっと手を見るといったような結果にしかならない。ね、ですからそれが本当に、豊かに裕福にです、ね、御用もです、一つの何かこうゆとりのあるゆっくりしたというか、ね、それで言うてそのがわがわの洋服着ておるようなものでもなからなければ、窮屈な洋服を着ておるのでもない、丁度良い自分の体に合った洋服を着ておるような気持ちよい、その御用をです。
 神様にお繰り合わせを願わなければならない。ね、同時にそういうおかげを頂かせて頂くためにまず自分自身の心を、の上に、自分の心の状態と言うものを願わせてもらい、そして、これはあのま、たとえて申しますならですね、その人の心の状態が非常に神様に打ち向かって、いわゆる修行精神いっぱいで御用させてもらっておる時、例えてならここに先生方が何人もおります。
 その中にそういう人にでなからなければです、ご結界は預けられないという気がいたしますですね。今晩の御祈念は、例えば、最近は、長男が、夜の御祈念、私がいない時いたしますけれども、あのー、今日は長男に夜の御祈念を預けても良いという時と、今日は預けられないという時がやっぱりあるです。ね、ですからこれは、神様のご覧になっても同じ事じゃなかろうかとこう思うですね。
 今日あの心の、あの氏子の心の状態であったらです、どういう大事な御用であってもさせても良いといったような働きが出来て来るのじゃないか。ね、出来て来ると私は確信いたします。ね、ですからまず、自分自身の心の状態がです、ね、いわゆる和賀心であり、りっぱであり。ね、同時に、十二分の御用させて下さいとこう、御用に向かうところの修行精神と言うものが旺盛な時でなからなければ、神様はうかうかとです、ね、良い御用をその人に向けて来なさるはずがないです。
 ね、ここんところを思うただけでも、いわゆる明日の善導寺町を、を担うあたなだから、といったような事ではなくて、やはり今日の善導寺町を治めるためにまず今日のあなたの心の上に、心を治めて行く事が先決ですというように、その新町長であるさかいさんに昨日御理解を頂いたようにです、信心させて頂く者はもっとそこんところを、綿密に頂いて、本当に神様が安心して御用を十二分にお許し下さることの出来る状態をまず願わなければならんと思いますですね。
   どうぞ。